あご匠の歴史

一台の軽トラック

私は、パッケージ会社の営業をしていました。 その当時は、学歴と年功序列の時代で、学歴も無く年齢も若い私がいくら営業成績を上げても、評価を受けることはありませんでした。 私が、生まれてすぐ、父と母が離婚をして、父方のおばあちゃんに育てられ経済的にも恵まれず、小学校の頃から毎朝、牛乳配達をして家計を助けていました。大学に行ける学力があっても行けなかったのです。

一台の軽トラック

社会に出て、会社に貢献しても報われないのならと、思い余った私は、社長に「給料を上げてください」と直談判しました。 すると社長は、「お前の仕事ぶりは、よく知っている。 しかし、 長く勤めている社員達の手前、特別扱いするわけにはいかないのだよ。 でも、お前なら独立してもやっていけるだろう。」と仰り、私が、新規開拓したお客さまの一部と会社の軽トラックをリースして頂くことが出来たのです。但し、商品を会社から仕入れる事が条件でした。 1台の軽トラック。それが、「松井商店」の始まりでした。

天狗になった、26歳の自分。

市場の野菜屋さんや魚屋さん、肉屋さんにポリ袋を卸してまわり、少しずつ、お客さんが増えていきました。 それから、わずか4年で、長崎の一等地、三景台に家と倉庫を幸運にも建てることができたのです。 当時、私は26歳。若かった私は、天狗になっていたのです・・・それからです。 次第に、仕事に行き詰まりを感じ始めるようになりました。 もう、これ以上売り上げは、伸びそうにない。 今のままでは駄目だ。 何か別の仕事をしなくてはならない。 そう考えた私は、前妻の実家が製造していた「煮干しやミリン干し」を持ち、大阪の阪急百貨店に営業に行くことにしました。 運良く、当時の食品係長(現在は、阪急百貨店の取締役)に、気に入られ、昭和62年3月に初めて、梅田阪急百貨店の「大九州物産展」に干物屋松井商店として、出店させていただくことができたのです。

干物屋松井商店 出発!

でも・・・半分も売れない状態で、叩きのめされた日々でした。 当時の主力商品は「いわしのミリン干し、煮干しいりこ」でした。 ところが、周りの店が、一日に50万以上売り上げているのに、私の店は、20万円も売れない始末。 叩きのめされました。 しかし、ここであきらめる訳にはいきません! 私は、一年間、美味しい干物、ミリン干しの勉強と研究を重ね、次の年の阪急百貨店「大九州物産展」に出店しました。 ところが、なんと、他県の干物屋が、まったく同じミリン干しを作り、販売しているのです。 しかも、当店より少し安くして。 ・・・またしてもやられました。 いわしや太刀魚のミリン干しは(味はともかくとして)どこでも作れるものなのです。

長崎県だけのもの、松井商店独自のものを!

私は、長崎県だけのもの。松井商店にしか、つくれない独自のものはないか、考えに考え、研究を続けました。 そして「長崎県、平戸の飛魚(あご)」にたどり着くわけですが、同時に大きな問題点に直面します。 その当時、あごは全国的に知名度もなく、食べる習慣もない食材でした。 まして、これでダシをひくなんて(九州北部から、日本海沿岸の一部の地域)の人たち以外、全く知られていません。 又、見た目のわりには、とても高価な魚です。 博多雑煮、五島うどん、一部の料理屋さまの隠し味(ダシ)として、使われているだけです。 これを、どのように商品化し、販売していけば良いのか? 私の目の前には、多くの課題が、山積みとなっていました。 実際のところ、この「あごだし」「つまみ飛魚」を、百貨店で販売出来るようになるまでは、味、ラベル、説明方法、などなど、赤字が続きました。 中には、「これ何?いわしが、酸化したもの?」「おいしいけど、高いじゃないの?半額にするなら買ってあげてもいいわよ!」などと、お客さまに言われることも度々でした。 そこで、私はこの「つまみ飛魚」「あごだし」をつくるのに、どれだけの職人の技が必要になるのか? どれだけの時間と手間がかかるのか?等・・・ お客さま一人ひとりに、じっくりと説明させていただくことに集中しました。 本物を作るのには、本物ならではの時間と費用がかかります。 私は、松井商店のあごの美味しさと、魅力を伝えるために、必死になって説明を続けていったのです。

口コミで、お客さまに広まっていく・・・そして、

食品催しの最高峯「グルメのための味百選」に出店! 少しずつ、本物の味を求めているお客様に、価値を認めていただき、そして、?島屋のバイヤーが、その噂を聞きつけ、当店に出店依頼が来たのです。 東京日本橋高島屋「グルメの為の味百選」。 日本を代表する老舗、銘店揃い、食料品催事に携わっている方なら知らない人はいない憧れの場所です。 高校野球で例えるなら、甲子園に出場するようなもの。 今までの努力が、ようやく認められたのです。 食品催しの最高峯「グルメの為の味百選」もう28年間開催されております。 当店は、14年前から出店させて頂いております。 この催しのお陰で今のあご匠松井商店があり、あご(飛魚)が、関東から全国に広がったと言っても過言ではありません。 今では、有難い事にあごを色々と商品化して販売する店も増えてまいりました。 しかし、私は商売人では無く職人です。 本物の「あご」最高級と謳われるあごだし本当に美味しいつまみあご等、商品作りに徹して行き、本物を求めるお客さまに、これからも最高の品々をご提供させていただけるよう努めてまいります。 最後まで、お読みいただきありがとうございました。

あご匠松井 店主

【あご匠松井商店 店主 略歴】

あご匠松井商店 店主

現在大阪に会社を移し9年目。 人と同じことをするのが、嫌いで、人がしていない事、新しいものを開発したり オリジナルを生み出して評価されることに喜びを感じる。 涙もろいく、人の悪口は、言わないし聞くのも嫌い。 尊敬する人物「北大路魯山人」

長崎県平戸の飛魚(あご)を全国に紹介した第一人者として、マスコミ等に紹介される。 料理評論家、著名人にも「つまみ飛魚」「あごだし」のファンを多くもつ。 キャッチフレーズは「高いテンション低い腰、落ち込む自分が大嫌い」 匠の技で磨きあげた、本物の「あご」を、お客さまに提供するため、美味しいものがなければ、自ら創ればいいと、技を磨き続けている。

2008年6月

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